前回に引き続き、「いじめ」の問題ついて考えていきたいと思います。
私は、そもそも「いじめ」という言葉の意味自体が非常にあいまいで、そのことが問題を複雑にしているのではないかと思っています。
よく、「いじめ」を定義するときに「何かをされた側がいじめと思ったらそれはいじめだよ」という言い方をすることがあります。
たしかにそれはそうかもしれませんが、でも何をしたら相手が嫌がるかとか、不快に思うかとか、そういったことは人それぞれで、
ちょっとしたことで嫌な気持ちをする人もいれば、何をされても全く動じないという人もいるでしょう。
だからいじめた側はよく「このぐらいのことでいじめだとは思わなかった」「遊びのつもりでやっていただけで相手が嫌な気持ちをしているとは気づかなかった」というような言い訳ができてしまうのです。
つまり、「何かをされた側がいじめと思ったらいじめだよ」という一見被害者を守っているかに思えるいじめの定義が、かえっていじめる側の言い訳の論理をつくってしまっているのです。
これでは、悪意のあるいじめがなくなるはずがありませんね。
いじめた側はずっと「これがいじめだとは思いませんでした」と言い続ければいいですから。。。
だから、考え方を変えなければいけません。
そもそも「いじめ」に含まれる行為としては、ちょっとした暴力をふるう・変なあだ名をつける・モノを隠したり盗んだりする・簡単に相手に「死ね」と言うなど数々あると思いますが、
たいていそのどれもが法律に照らし合わせたときに罪になる可能性のあるものばかりです。
例えば、道端で見ず知らずの人に、暴言を吐いたり、暴力をふるったり、急に変なあだ名をつけたり、モノを盗んだりしたらどうなるでしょう。
間違いなく訴えられますよね。
それと同じで仲の良いコミュニティの中でも、ちょっとした暴言や暴力をふるったら、罪に問われる可能性はあります。
それが許されることがあるのは、たまたまその人との特別な関係性(信頼関係や友人関係など)があったからにすぎません。
つまり、「いじめ」の問題をそもそもそのコミュニティの人間同士の関係性がある前提で考えることが間違いで、
本来は、「人に不快な思いをさせる言動は確実にいじめ(罪)になる」ということを大前提として「いじめ」の問題をを考えるべきなのです。
目の前でちょっとした悪口を耳にしたり、誰かを小突いたりする様子を目撃したり、クラスで誰かをはやし立てるような雰囲気があったりしたら、まずはその一つ一つの小さな事象をその場その場で対処していくということが重要です。
その継続が結果的に「いじめ」の撲滅につながるはずです。
リトルステップ 塾担当 渡部岳(わたなべがく)
投稿者プロフィール
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リトルステップで学習塾を担当している渡辺です。
高畑小学校→道塚小学校→六郷中学校→東京高等学校→明治大学政治経済学部。
大学では『都市政策』専門家の市川宏雄教授のもとでゼミ活動を行い、その中で大田区長に対して「大田区の外国人観光客向け観光プラン」の政策提言を行いました。また、文学部で教職員課程の教授でもある齋藤孝教授から2年間教育方法・授業論等を学び、その教えを基に現在教育活動を行っています。
2019年3月まで学校現場でクラス担任をやっていて、現在も非常勤講師として学校現場に携わっています。
学校と塾と家庭の連携を図り、子どもたちをより良い進路へと導いていけるように最善を尽くします。よろしくお願い致します。
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